新世界へ
人は満足を求めて、
あらゆる思考や行動を自らや他人に働きかける。
脳内で繰り広げられる様々な化学反応を起こすには、
脳内領域だけでは限界があるからだ。
脳内の要求を得るためには、 脳外に働きかけて、
身体を動かして、 外部から別の経路を経て、
再び脳内に働きかけることで達成しなければならない。
なんと非効率なシステムなのだろうか?
幸せや満足を得るためだけなら、
脳内で完結する化学反応だけでいいはずなのに、
要求を満たすためには、 脳外部に働きかけなければならない。
このシステムによっておおよその生き物は、
自らの要求する目的を果たすために多大な犠牲と労力を強いられる。
自己完結は許されていないのだろう。
生き物として変化することを義務付けられているみたいだ。
変化の渦に巻き込まれていくうちに、
自らの複合的要求の方向性さえ分からなくなる時がある。
その瞬間、何かの思惑にはまっているような錯覚を覚える。
それが狙いか?
あらゆる世界の純粋な変化を求めているのか?
満足や快楽は、変化を起こすための餌のようなものかもしれない。
自己の満足を得るための代償に、
僕らは世界の変化に加担する必要があるのだ。
人間は一人では生きられない。
人間は自分が他人に与える変化と、
他人が自分に与える変化によって支えられているのだ。
人の間と書いて人間 支えあう社会にお互いの人格と影響力を持ち合わせている。
誰かを褒めても、誰かを批判しても、
厳密には自分と無関係ではない。
複数の生き物が自らの要求をかなえるためには、
お互いに影響し合わなければならない。
その影響には良いことも悪いこともあるが、
それも視点次第で良し悪しは入れ替わる。
自然の法則に善悪はない。
善悪は人間が作ったものだ。
多くの人間が容認するものを善と呼び、
多くの人間が拒絶するものを悪と呼ぶ。
法則に導かれて変化する先の最後に待つものは?
僕らがそれを知ることはないだろう。
小さな時間の中で考えるのなら、
人間の考える未来に異論はない。
でも大きな時間で考えるのならどうだろう?
生きて感じるものを整理すれば、
答えはおのずとそれぞれに導かれる。
僕らは答えを急ぐよりも、
今は事象の整理と帰納に集中するべきだ。
決めるのは、それからでも遅くないだろ?
振り返らなきゃ見えない未来もあるんだぜ。