至る道
その根拠は以外にも乏しい場合が多い。
自分で苦労して獲得した経験や知識でなければ 、
いつのまにか反射的に理解し決断してしまう罠にはまってしまう確率は高い。
判断力は観察力に左右され。観察力は理解力で生み出される。
理解力は好奇心で育まれる。
好奇心から始まるそれ(心)は、
いつか何かの判断力に大きく影響していく。
その過程を、人はいちいち考えない。
そこに思考の落とし穴がある。
その判断は適切か? 永遠のテーマだ。
思考の指向性を意識すれば、自分が見えてくる。
人生の軌跡をみれば、自分が何者かが見えてくるように。
自分を知るには、自分を観察するしかない。
生まれた好奇心を、 直ちに判断力に変えることはとても難しい。
しかし、 下す判断については、 その理由を多角的にさかのぼることで、
自らの下す判断の傾向は見えてくる。
判断の指向性 これは自分を知る手がかりである。
人の判断には常に偏見と感情が付きまとう。
医療現場においてその偏見と感情は、
取り扱いを間違えないようにしなければならない。
誰もが持つ偏見と感情。 人生において、
その取扱いが何より重要である。
もし、飛行機を感情で飛ばしたらどうなるか?
飛行技術は、常に気象や天候という事象が付きまとう。
もちろん勘のようなものは時として役に立つこともあるだろう。
しかしそれは、あくまでも不確かなものであり、
勘だけで飛ばせばいつか必ず墜落するだろう。
僕らが自然の事象に深く関わる時、
自然の法則や摂理を無視することはできない。
大切なことは、
今いる場所が、 何によって成り立っているのか? ということを理解することである。
そもそも人という生き物は、
常に正しい判断をできるようにはできていない。
だからこそ、自然の摂理に導き出された理論が必要不可欠となる。
医学や気象学、航空学とは、そういう摂理を、経験と事象の結果から 導き出されたものだ。
知識や経験は、判断を補完してくれる。
飛行機を感覚で飛ばしてはいけない。
医療を感覚で施してはいけない。
良質な判断材料において、摂理に勝るものはないのだ。
摂理を理解することこそが、良質な判断を導き出せる。
しかしまた、俯瞰で観れば、 人の感情も摂理と言えるのだが。
そこまで考えると、思考の迷宮に入り込んでしまう。
きりがない。
感情を遠ざけろと言っているのではない。
未来を確かなものに近づけたいのであれば、
感情を適切に扱う事が望ましい。
感情を摂理でとらえる時間を持つことをお勧めしたい。
行動の改善を試みるのであれば、
結果から逆算する方が、反省はし易い。
結果から目をそむけないことも、
これまたなかなか難しい。
本意でない結果と向き合うためには、
精神的にタフでなければならない。
「事象は摂理を裏切らない」
目の前にある結果(事象)は、
この世の摂理がもたらしたものだと、つくづく思う。
僕らは事象を観察することはたやすいが、
摂理を観察することは難しい。 自然界に善悪はない。
そこあるのはただただ摂理がもたらす結果なのだ。
文化文明は、この世の摂理を、
感情や偏見で捻じ曲げてしまう性質を持っている。
天に手を合わせても、雨は降らない。
ところがこれを信じたくない人たちがいる。
言い伝えや風習は人の思い込みによる類がある。
それが善悪に絡むとなるとたちが悪い。
この地球において、善悪は人間特有の感覚だ。
その善悪のせいで、摂理の本質をとらえづらくなる傾向が生まれる。
もちろん、文明社会において善悪の概念は必要だ。
と同時にその概念の危険性も理解するべきであろう。
善悪の概念も使いどころがあるということだ。
結局、どこかで私欲を断ち切るところが必要なのかもしれない。
医学界には様々な派閥と意見がある。
基礎医学をベースにしながらも、
様々な過程を経ていくうちに、
いつの間にかバイアス(偏見)に満ちた意見が 横行していることがある。
と同時に、バイアスを払拭し、
公平な目線で医の摂理を守ろうと人もちゃんと存在する。
僕に言わせれば、 後者の方が圧倒的に優秀で核心をついている。
だが、、、、、、、、
その数は圧倒的に少ない。
集団の原理にしたがえば、
優秀な人間は全体の2割程度だという意見もある。
僕に真偽を確かめる術は無いが、
経験論(偏見あり)で言わせてもらえば 賛同したいところだ。
人間社会においては、
大なり小なり利害関係があり、
各個人のもつ指向性がある。
物事を短い局面で判断すれば、全体を見失い、
判断が長引けば核心はぼやける。
このような答えの出ない議論や問題が、
この世には沢山ある。
生物がいろいろな試行錯誤を繰り返しながら、
進化や退化を繰り返すように、
人の意見や思惑も揺れ動いていく。
価値観も変化していくのである。
それでも僕らは進む。
それでいいのだ。(バカボンのパパ曰く)
人の不完全さを、僕らは受け入れなければならない。
僕の不完全さを、僕は受け入れなければならない。
そうしてもがき、前に進む。
少しでも摂理を理解し、世界を少しでも正しく観察したいからだ。
もがきながら答えに迷う時、ふとこの言葉が頭に浮かんだ。
「事象は摂理を裏切らない」
我ながら、真理をついていると、
偏見交じりに思うのだ。
? ここでいう摂理はいかなる宗教とも関係ありません。あくまでも、自然の摂理を意味します。