思考の鍛え方 その1

? 肉体と同じくして、精神もその在り方を誤ると、不本意な結果を 招くことになる。

 

僕らが受けてきた日本の教育システムに、

人生を豊かに過ごす画期的な方法論は組み込まれておらず、

日々を楽しく過ごすために何が必要であるかは、 各

個人の思想や生き方に任せるしかない。

 

ま、そりゃそうだ。

 

その昔、引越しが度重なり、

僕は小学校を4つ経験し、

中学校を2つ経験している。

いろいろな教師に出会い、

その中にはひどい教師もいれば、

すばらしい教師もいた。

 

昭和の教育制度は、

今から思えば笑っちゃうくらい非合理的で、

生徒の人権なんてものは、ある部分では無視されていた。

 

それでも、、、(これはあくまでも想像にすぎないのだが、)

 

今の時代よりずっと、

教師は愛と自信を持って教えてくれていたと 信じている。

人として大切なことが何であるか?

教育するべきことはここから始まるのであり、

決してその子の学歴のためだけではない。

時代に関係なく大切なことと、

時代に関係ありきに大切なこと。

この2つを、幼き頃からひとつの教室で教えられたらいいのにと、

切に願う。

それができる教師には、

豊かな経験と、

幅広い知識と、磨き上げられたセンス が求められるのである。

が そんな教師、めったにいるもんじゃない。

 

そういう人は大抵、学校の外にいるものだ。

教わる人にもセンスが問われるのが現状であろう。

教わり方のうまい生徒は、教師の言葉を鵜呑みにせず、

自らを開拓するためのひとつの因子だと考えるので、

冷静に教わることができるものだ。

 

間違えた教育のひとつに、 怒ること、注意することが教育だと思うことだ。

 

これは教育の一部分であり、

教育そのものではない

教育とはなにか?

 

それは、成果を出すことである。

 

成果の出ない教育は、そもそも間違っている。

教育者は生徒が成果を出すことで、

自らの教育が正しかったと 認識できるのだ。

(成果とは成績のことだけではない)

 

成果がでるまでは、自らの教え方が正しいなんて言えないでしょ?

成果が出て、

教師の偉業は評価されるのである。

教育の目的は教えた内容を実行し、

成果を出させることであり、

教えること自体が目的であってはならない。

(成果が出ない時、生徒のせいにする先生は多いけどね)

教育者としての自覚があるのならば、

自らの責任についても 深く追求するべきであろう。

?そこから、

教え方も進化させていくことで、

教師は成長できるのだ。 教師も生徒に教えられるのである。

 

教師と生徒の間には、 信頼関係が必要不可欠であり、

どんなに良いことを唱えても、

教える人間に信用がなければ、 その言葉は無に等しい。

 

この信用を、

日々の小さな努力の積み重ねによって 獲得しているかどうかが重要なのである。

 

信頼関係がないのに、偉そうにものをいう先輩や上司、 親、教師がどれほど多いことか。

?ま、それでも優秀な教え子の場合、

謙虚さをもって 冷静に対応し、

教師の足りなさを優しく受け止めて、

相手の自尊心を傷つけないように努めるのだ。

どっちが教師なんだか。

 

教えるということは教わること

この言葉を理解することで、

 

両者は対等になる。

対等になることで、

お互いに謙虚になれる。

謙虚から生まれる相手への思いやりだけが、

信用、信頼を獲得するまでの お互いをつなぐ唯一の命綱なのだ。

 

教えるほうも、教わるほうも謙虚であること。

 

?教育とは、ここから始まる。