追想 その1
最近、僕のHPやブログを読んで来院してくださる患者さんが増えてきた。
あのめんどくさい文章や、ブログのかたっ苦しい話題を読んで来院する時点で、
僕が言うのもなんだけど、すごいと思う(笑)
あれだけの内容をちゃんと読まれる方は、いずれにせよ、物事をちゃんと理解したい、という考えであろうし、問診時に、なるほど、良く考えているな、とあらためて感心してしまう。
今回は、僕の考え方や、当院の診療スタイルを、わかりやすく伝えてみたいと思う。
わかりやすくするために、ざっくりとした表現となるので、文が荒くなることはご了承願いたい。
大学時代から、素晴らしい先輩方に恵まれ、歯科医療の現実や可能性について、他の同級生よりは早く知ることができた。おかげで、肩書が自分にとってあまり意味をなさないこともすぐに理解できたし、人には向き不向きがある故、肩書で武装しなけりゃ生きていけないやつもいれば、そんなものが無くても自由奔放に生きていくやつもいて、それぞれに「利」があるので、お互いに協力すればいいだけの事。だと認識している。
医療の現場は科学をベースにしなければならないと思っていたし、今でも思っている。
理論と倫理、道徳を掛け合わせて仕事をする。 と、言うは易しだが、実際は、、、(笑)
まあ、人間とは自分も含めて面倒な生き物だ。
理屈と感情のぶつかり合いを、自分自身でさえコントロールすることが難しいのに、
他人をどうこうしようなどとは、そもそもハイリスクである(笑)
ま、無理だ。
そして我々の日常は、平和な世界に支えられた、よくあるお決まりの感情や言論、
価値観さえも誰かがいつの間にか作り上げたもので満たされている。
もちろん、社会生活を営む上でそれはある程度欠かせないのだが、その反面、
自分でちゃんと考えるという機会を多く奪われていることに、ほとんどの輩は気づいていない。当然、僕もその一人だった。
理想と現実を、これほどまでに突きつけられる医療業界の魅力こそ、
この世界を生きる醍醐味なのだが、経験を積めば積むほど、理解を深めるかわりに、
速すぎる達観速度に戸惑う時もある。
歯科医師になってから最初の10年は、正義感だけで仕事をしていたが、
視野が広がるほどに、それがいかに小さい窓で世界を覗いていたか。ということに
自覚するようになった。
正義だけで語れるなら、世の中は誰も苦労しないのだ。
二律背反、矛盾など、これらありきで考える必要がある。
需要と供給 こそ、人間社会の礎であり、正義も需要が無ければ机上の空論だ。
とはいえ、正義なくしては、物事が円滑かつ継続できないゆえ、
正義も使いどころが肝心だ。
歯科医師として、患者のニーズに応える義務があるとはいえ、
患者全員を幸せにすることはできないことを経験を積むほどに痛感した。
誰からも必要とされ、全員を幸せにできる歯科医師にはなれないのだと。
悟った。
自分が診るべき真の患者を基軸として考えるべきだと。気づいてしまったのだ。
それがリアル社会で生きるための術だ。
「誰を診たいのか?」
大学を卒業してから、これは僕が仲の良い後輩に必ず言うセリフだ。
歯科医師としてどうなりたいのか?
全てはここから始まる。
試験はただの通過点であり歯科医師としてどう在りたいのか?
をできるだけ明確にすることが、国家試験に対する具体的な対策につながり、
さらには合格後もしっかりとした目標を見据えて成長できる。
多くの歯科医師は、国家試験が終われば、学んできたことの大半を忘れ、
歯科治療のやり方ばかりに目を向け、そのうち、自分が何をしているのかがわからなくなる。医療制度の歯車の一つになることが悪いとは思わないが、
形骸的な医療行為に慣れてしまうと、行く末はだいたい見えてくる。
だが、
そうせざるを得ない現実もある。
迫りくる多くの患者を診療するとなると、工場仕事にならざるを得ない。
かといって、理想の診療を行えば、患者の負担が大きくなり、
診療できる患者が限られてくる。社会性、公共性を重んじる「医療」なら、
形骸的な側面を帯びてしまうのは致し方ないと言える。
小さな町の歯医者さん。
みたいなものを想像して、父親の医院を継いでのんびり暮らすつもりでいたが、
人生はそう甘くない(笑)
なにか運命のようなものに惹かれながら、
なんだかんだで、僕は東京で仕事をすることになった。
続く