バケツが教えてくれること。

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今から18年前、僕はまだ大学生だった。

夏休みに、熊本にいる同級生の今村君の実家に遊びに行ったとき、

母親の隆子先生が、

僕に向かって言った言葉を今でも時々思い出す。

「毛利君、なんだかんだで鋳造したクラウンより、バケツ冠の方が、

外してみたら全然中の歯は無事な場合がほとんどなのよ、

学校では、鋳造クラウンを教えるでしょうけれど、

昔ながらの方法のほうが上手くいく場合も少なくないのよ」

鋳造クラウンとは、

歯を削り、型をとり、

精密な歯の形をつくる方法であり、

現在最も多く使われている方法である。

バケツ冠とは、別名 縫製冠 と呼ばれ、

今ではほとんど用いられることはなくなった。

両者の違いは3つある

1 鋳造冠の方が形態精度が高く、歯にしっかり適合している

2 鋳造冠の方が硬く、噛み合わせで穴があくことはあまりない  。これに比べてバケツ冠は柔らかいので、咬合面に穴があくことがある

3 鋳造冠は象牙質まで削るのだが、 バケツ冠はエナメル質歯科削らない

 

? 適合や、形態、 耐久性、

 

どれをとっても鋳造冠の方に軍配があがる。

だからこそ、

今ではほとんどが鋳造冠である。

バケツ冠を行う歯科医師は もはや稀有な存在である。

隆子先生の言葉に、当時の僕は反論した。

「でも先生、バケツ冠は歯頸部の適合性が悪いので、

食物が引っ掛かりやすくなれば 虫歯や歯周病の問題を引き起こしませんか?」

このとき隆子先生は、

生意気な僕の意見にやさしくうんうんとうなずきながら、

自分の臨床で経験したことをいろいろと話してくださった。

 

確かに少し虫歯になることもあるけれど、

エナメル質が残されていることで、 虫歯の状態は軽度のものが多いと言っていた。

当時の僕は、その問題がずっと頭から離れなかった。

古い方法に固執した、偏見だと感じた。

隆子先生は勉強家で、

患者さんからもとても高い信頼を得ている。

そのことは話をしていてすぐにわかるくらいだ。

卒業して2年後、

実際、隆子先生の代わりに一週間診療させてもらう機会があり、

その時の今村歯科医院の盛況ぶりや、

患者さんの口の中を診させてもらうことで、

本当にすごい先生だなと実感したくらいだ。

でも、その先生が、

鋳造冠よりバケツ冠の方が良いなんて、

どうしても納得がいかなかった。 (

この問題は卒業してもしばらく僕の頭を悩ませていた)

歯周病の問題については言及しなかったが、

ようやくあのころの隆子先生の言わんとしていることが あるとき理解できるようになった。

隆子先生は正しかった。

1バケツ冠は基本的にエナメル質しか削らないので 適合が少々悪くても、虫歯にはなりにくい。

対して鋳造冠は象牙質まで削るので、

もし適合が悪く象牙質が露出してしまえば そこから虫歯になる確率は高い。

2バケツ冠は柔らかいので、 噛み合わせの変化や多少の 不正なかみ合わせにも文字通り柔軟に対応する。

そのため、鋳造冠より咬合性外傷(歯周病)にはなりにくい。

むしろ保険で最も多く、

使われている12%パラディウム合金の方が よっぽど硬いため、

咬合の変化に対しては柔軟ではない。

強い力を受けたとき、穴があかない代わりに、

歯を支える組織に被害をもたらす。

3 バケツ冠のほうが食物はひっかかるかもしれないが、

もしバケツ冠が歯周病の原因に大きな影響をもたらすのであれば隆子先生はそれを見逃すとは思えない。

隆子先生の臨床経験からして、

適合の悪さがただちに歯周組織に 悪影響をもたらすものではなかったのではないだろうか。 (あくまでも推測)

隆子先生があの時言いたかったことは、

最先端で良しとされているはずの鋳造冠よりも、

昔ながらのバケツ冠のほうが優れることもあり、

教科書や学校で教わったことを鵜呑みにするのではなく、

臨床でしか学べないことも沢山あるのだから、

何事にも広い視野で取り組みなさい。

ということだと解釈している。

 

ちなみに現時点の僕が考える両者の扱いは以下にまとめる

まず、鋳造冠とバケツ冠のどちらがいいのか?

という問いに対しては、

丁寧に支台歯形成を行い、

高い精度で印象採得と鋳造を行い、

適合のチェック、合着のチェックに対して

高いレベルでできるのであれば

 鋳造冠の方が良いと思われる。

ただし、鋳造冠と称して、

支台歯形成や製作過程が雑なものであれば、

鋳造冠はむしろ悪影響を及ぼす可能性が高くなる。

歯科医師の診療レベルによっては、

中途半端な鋳造冠よりは、

無難なバケツ冠の方がよっぽど安全なケースもある。

という事である。

実際、

保険診療で精度の高いクラウンを 製作している歯科医院は、

たぶん少ない。

それでも数年は問題なく使えるだろうが、

咬合の変化に対して12%パラディウムは 硬すぎる。

だからこそ定期的な調整が必要になる。

臨床上、噛み合わせの調整の重要性を 理解できる患者さんは少ない。

 

このような患者さんにとって、

長い目で見れば 柔らかい金属を用いて、

できるだけ歯を削らないバケツ冠の方が 有利になるケースもあるという事だ。

 

臨床には様々なケースがあり、

一概にどちらがいいとは言えない。

それでも、 歯科治療と称して行う治療が、

将来の疾患をひきおこす原因になるリスクまで 考えている歯科医師は本当に少ない。

治療をどのレベルで考えるかによって 答えは異なる。

保険治療で数をこなす診療が悪いとは思わない。

それはそれで必要とされている地域もまだまだ多い。

しかし、そこに新しい歯科治療を 安易な気持ちで組み込むことだけは避けてほしい。

 

入れ歯もろくにつくれない一般歯科医師が、

インプラントや矯正をするのは危険極まりない。

本質で考えれば何が大切なのか? ここがセンスの要である。

本当に大切なことは、

行う診療の一貫性と根拠について 深く考察する姿勢ではないだろうか?

治療技術は日々の経験で獲得できるかもしれないが、

良い考え方は自らが探求し、

自らを反省し続けることでしか 改善できないものなのだから。

 

隆子先生、本当にありがとうございました。

あの時の言葉がようやくわかるようになりました。

 

隆子先生が他界されてから、

今では息子の友信が後を継いでいる。

今村歯科医院は今日も大盛況である。