言葉≒心 & 言葉≠心 

 

? 言葉には力がある。

 

人は言葉に生きている 言葉とは、

自らの想いを自分以外に伝えるために、

そしてまた、自分の想いを自分自身に伝えるために存在する。

言葉の使い方は人それぞれに違う。

同じ日本語でも、世代や環境の違いから、

言葉の持つ意味は微妙に異なる。

場合によっては大きく異なる。

この異なりは、会話を盛り上げてくれる効果を持つ。

 

信頼関係がしっかりあればあるほど、

無茶苦茶な会話であっても酒のつまみになることがある。

?だが、お互いの信頼関係が乏しく、

情報を正確に伝えなければならないとき、

この異なりは、

むしろ誤解の種になりやすい。

 

会話にはいろいろな種類がある。

楽しむ会話、会議における会話、夫婦の会話、

上司と部下の会話、同僚同士の会話、

激励の会話、慰める会話、

患者との会話、お客さんとの会話、

先輩と後輩の会話、 店員との会話、

恩師との会話 友人との会話、

父親との会話、母親との会話、

祖母との会話、 祖父との会話、

親戚との会話、etc さらには 様々な状況が加わって、

多種多様な会話が生まれるのである。

全ての会話には必ず暗黙のルールがある。

 

もちろん、

すべてのルールを 全ての状況で厳守する必要はないだろう。

ただし、

用いる言葉や、会話の方向性を 的確に用いることは、

その会話を建設的にするべきだ。

 

 

会話によって何かを獲得したいときは、

このことをよく理解したほうがいい。

自分の言いたいことと、

自分と相手にとって 言うべきことが合致するとは限らない。

例えば、 一日中家事に追われ、

ご飯を支度して夫の帰りを待っている主婦と、

一日中働き詰めで、

終電でぐったりして帰ってきた夫のするべき会話とは?

 

二人の共通点は、お互いにとても疲れているということ。

そして、もしこの二人がいつまでも良い関係でいたいと思うなら?

会話のルールは、 相手をこれ以上疲れさせない。

会話によって疲れがとれる。

この2つで十分である。

 

この2つが成り立つなら、

言葉は何を言っても良いのだ。

 

 

ただし、

どの言葉がそれに当てはまるかの判断基準は、

それぞれが熟慮する必要がある。

(相手の為に良かれと思う発言が、相手に伝わらないことは 多々あるからである。)

何よりも熟慮することを決して面倒にしてはならない。

 

?これを怠れば、会話は不本意な方向に行く可能性があるからだ。

?(もちろん一方が愚痴を言うのであれば、

もう一方は丁寧に最後まで受け止めるのも良いだろう。

しかしこの場合、その役回りは交代する必要が生じる。)

このサイクルがバランス良く運ぶことは難しい。

 

 

つまり、このやり方は、長期的にみればあまりお勧めできない。

お互いが相手への良き理解力と大きな包容力があれば別だが。

会話にも技術がある。 どんな技術にも練習はつきものだ。

 

 

自分の会話や言葉に技術力がないうちは、

あらゆる試行錯誤をするべきであろう。

 

(つまり練習) これを怠れば、不本意な会話になっても、

自業自得というものだ。

 

 

そして自分の技術力不足を棚に上げて、

相手を非難すれば?

最悪な結末が待っているだけだ 非難はそのまま、

あるいは増幅されて自分に返ってくる。

 

 

自らの会話力を上達させるためには、

できるだけ些細な会話にも注意を促し、

試行錯誤のもとに、予測と検証を 繰り返すことで、

言葉の使い方や選び方を習得していくのである。

 

 

会話の上手い人を真似るのも良いだろう。

たぶん、言葉を的確に使える人はあまり多くない。

何より僕自身、会話の技術には自信がない。

 

 

今更ながら、もっと勉強すればよかったと思っている。

?そしていつも、 もっと良い表現があるんじゃないか?

もっと相手に伝わりやすい言葉があるんじゃないか?

自問自答してしまうのだ。

 

 

言葉は人の気持ちを代弁しているだけであって、

心そのものではない。

 

 

心と言葉には隔たりがある。

隔たりがあることを理解すれば、

聞いている側が相手の心を汲み取ろうとする。

 

 

隔たりがあることを無視すれば、

聞いている側が相手の心を決めつけてしまう。

 

良い会話とは、言葉そのものに頼りすぎないこと。

 

 

そこにある隔たりを、

お互いに認識しながら丁寧に 会話を運ぶ習慣をもつといいだろう。

 

その隔たりを態度で補うのもいいだろう。

 

 

心と言葉の間にあるもの そこは誰かの優しさが入る領域かもしれない。